キリスト教 ≪宗教・修道院・観光≫
キリスト教において、神の教えにもっともかなった生活をするべく、特別な誓い(誓願)をたて、一定の戒律にのっとった生活を実践する者を修道士または修道女とよび、彼らの集まって生活する場を修道院という。
修道生活はカトリック教会や東方正教会で行われるもので、プロテスタント諸教会ではほとんどみられない。
修道者の生活ぶりは各修道会によりさまざまだが、清貧、貞潔、服従の三つの原則的な徳目は共通である。
古代には1人で隠者の生活を送る隠修士も多く、東方正教会にはいまもその伝統は残っているが、現代ではほとんどの修道者は修道院で共住の形をとる。
修道院は男女別住であり、祈りと労働がその生活原理である。
戒律の厳しい修道院では毎日の日課が克明に定められており、女子修道院では外部との交流を厳しく制限する禁入制をとるところも少なくない。
ただし第二バチカン公会議(1962~65)以降、修道院の生活規則も、時代に適応するべく変更ないし緩和される傾向にある。
947年、死海の北西岸の洞窟(どうくつ)で多くの文書が発見され(死海文書)、この文書の旧所有者たるクムラン教団にユダヤ教修道制が存在していたことが想定された。
これと、従来から知られていたエジプトのテラペウタイの集団やパレスチナのエッセネ派、エルサレムの使徒集団との関係が問題にされるようになった現在では、キリスト教修道院の起源もこの時代までさかのぼって論じられなければならないかもしれないが、通常は、3世紀後半期に中部エジプトのテーベで隠者パウロやアントニウスによって創設されたとされている。
とくにアントニウスは、アレクサンドリアの主教アタナシウスの筆になる『アントニウスの生涯』Vita S. Antonii(356以後)が早くから西ヨーロッパに伝えられたこともあり、修道制の父として尊敬され、その苦行ぶりは、中世末、近世初頭の画家たちに絶好の画題を提供してきた。彼は、monkの語源「ひとり住む者」のとおりに、砂漠や山中で1人で修行した。
この隠修士的修道制は、彼の弟子ヒラリオンHilarionによってパレスチナに、また同じくマカリオスMakariosによってナイル川デルタ地帯に伝えられたが、この形式は瞑想的な東方教会の修道士にとくに好まれて根強く続いていった。
修道生活はカトリック教会や東方正教会で行われるもので、プロテスタント諸教会ではほとんどみられない。
修道者の生活ぶりは各修道会によりさまざまだが、清貧、貞潔、服従の三つの原則的な徳目は共通である。
古代には1人で隠者の生活を送る隠修士も多く、東方正教会にはいまもその伝統は残っているが、現代ではほとんどの修道者は修道院で共住の形をとる。
修道院は男女別住であり、祈りと労働がその生活原理である。
戒律の厳しい修道院では毎日の日課が克明に定められており、女子修道院では外部との交流を厳しく制限する禁入制をとるところも少なくない。
ただし第二バチカン公会議(1962~65)以降、修道院の生活規則も、時代に適応するべく変更ないし緩和される傾向にある。
947年、死海の北西岸の洞窟(どうくつ)で多くの文書が発見され(死海文書)、この文書の旧所有者たるクムラン教団にユダヤ教修道制が存在していたことが想定された。
これと、従来から知られていたエジプトのテラペウタイの集団やパレスチナのエッセネ派、エルサレムの使徒集団との関係が問題にされるようになった現在では、キリスト教修道院の起源もこの時代までさかのぼって論じられなければならないかもしれないが、通常は、3世紀後半期に中部エジプトのテーベで隠者パウロやアントニウスによって創設されたとされている。
とくにアントニウスは、アレクサンドリアの主教アタナシウスの筆になる『アントニウスの生涯』Vita S. Antonii(356以後)が早くから西ヨーロッパに伝えられたこともあり、修道制の父として尊敬され、その苦行ぶりは、中世末、近世初頭の画家たちに絶好の画題を提供してきた。彼は、monkの語源「ひとり住む者」のとおりに、砂漠や山中で1人で修行した。
この隠修士的修道制は、彼の弟子ヒラリオンHilarionによってパレスチナに、また同じくマカリオスMakariosによってナイル川デルタ地帯に伝えられたが、この形式は瞑想的な東方教会の修道士にとくに好まれて根強く続いていった。
update:2010年01月31日
